Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
ニューブリテン

ニューブリテンは、標高2500メートルに達する山脈が連なる、長さ約500キロ、平均幅80キロの島である。1942年1月、日本陸海軍は同島北部のガゼレ半島にあるラバウルを占領した。これは本来、海軍の主要基地であるトラック島の安全を確保するための措置であったが、ラバウルはまもなくニューギニアとソロモン諸島での作戦遂行上もっとも重要な戦略基地となった。さらに日本軍はニューブリテン島南岸のガスマタ(スルミ)と北隣のニューアイルランド島のカビエンに前進航空基地を作った。


ラバウルは1942年初頭より連合軍の度重なる空襲に晒されるようになった。これに対処すべく、ラバウル周辺には最も強固な防空施設が整えられた。終戦時には日本軍が破壊された町の周辺の丘に掘ったトンネルは全長300キロを越えていた。1944年初頭には9万人以上の日本兵がニューブリテン島に駐留しており、さらにニューアイルランド島には約1万3千人の日本兵が駐留していた。ラバウルを本拠とする第8方面軍は今村均将軍が指揮し、第17師団・第38師団・第65旅団、戦車部隊・高射砲部隊、および兵站・衛生部隊より編成されていた。また、海軍は草鹿任一中将指揮の南東方面艦隊がここを基地とした。南東方面艦隊は第11航空艦隊を基幹とし、特別陸戦隊・設営隊・兵站関係の諸部隊を含んでいた。

1943年1月にパプアとソロモン諸島で日本軍が敗退し、さらに同年3月にニューギニアの守備基地の補強に向かう輸送船団がダンピール海峡で大被害を蒙ると、今村将軍はニューギニア本島への補給線を守り、将来の攻勢に備えるため、ラバウルの基地の強化に努めた。しかし、1943年9月、東京の大本営は刻々と変化する西南太平洋地区の戦況を鑑みて、「絶対国防圏」を定めた。この方針は基本的には予期される連合軍の反撃に対する持久戦を意図するものであった。

連合軍は、1943年1月のカサブランカ会議において西南太平洋地区の全般的な反攻戦略の一環として、ソロモン諸島占領後、ラバウルに進攻し、これを占領することを決定した。しかし、日本軍の徹底抗戦の姿勢を目の当たりにして、1943年の8月にはラバウル等の日本軍拠点を迂回して日本に進攻する作戦へと方向転換した。これに従い、日本軍との正面戦闘を避け、ブーゲンビルとニューギニアに上陸するとともに、ニューブリテン島の西部に上陸して日本軍を釘付けにし、日本軍諸部隊を孤立させようとした。連合軍にとって、フォン半島の制圧とニューブリテン島西部の占領は、 ダンピール海峡とビチアズ海峡を勢力圏に置き、ニューギニア北岸とさらにより遠方への安全な通行が可能にする意味があった。

こうした進攻の準備として、連合軍は連合軍情報局(AIB)の諸部隊をニューブリテンに派遣した。これら部隊は情報を収集するためにオーフォード岬周辺で活動していた沿岸監視隊に合流した。オーストラリア軍将校と現地兵からなるこれら部隊の幾つかは、上陸予定地・日本軍の戦力などについて貴重な情報を得ることに成功し、また日本軍の空襲を事前に知ることができた。さらに、連合軍は、上陸作戦に先立って、ラバウルとニューブリテンの他の日本軍基地に対する空襲を強化した。

ニューブリテン島の西部は、グロスター岬周辺とウインボイ島に布陣した松田巌少将指揮下の第65旅団が守っていた。さらに、第17師団の一部部隊がガスマタを守っていた。1943年12月15日、アレクサンダー・ミラー中佐指揮下の米第112機甲連隊がアラウエに上陸した。そして、12月26日にはウィリアム・ルパータス少将指揮下の米第1海兵師団がグロスター岬の幾つかの地点に上陸した。強力なアメリカ軍に対して日本軍は益々孤立化していったが、包囲下の陣地での抵抗は数週間続いた。しかし、翌年の1月中旬、松田少将は東部への全面撤退を命じた。2月中旬にはガスマタを守る第17師団の部隊も退却し、西部ニューブリテンは連合軍の手に落ちた。

1943年10月中旬からのニューブリテンへの連合軍の空襲の激化に対して、日本軍はトラック島の海軍基地より飛行機の増援をし、この地域の航空戦力を強化した。11月初頭までに日本軍の東南方面艦隊はラバウルに500機以上の飛行機を擁するようになった。連合軍はこれに力で応じ、11月には空母からの戦闘機でラバウルを強襲し、また太平洋地区でこれまで最大の空爆を行った。連合軍の戦略は効果を上げ、12月にはニューブリテン島西部のアメリカ軍上陸地点に対する日本軍の空襲があったものの、日本軍の航空部隊のほとんどはトラック島へ撤退した。日本軍の航空部隊の抵抗はますます弱まり、連合軍は1944年1月中もニューブリテンの日本軍拠点に対する空襲を繰り返した。2月17日から18日にかけて連合軍はトラック島を数度にわたって強襲し、その結果、日本軍は270台の飛行機が破壊された。そのため日本軍は使用可能な飛行機をすべてラバウルからトラックへ撤退させ、ニューブリテン上空の制空権は完全に連合軍が握ることとなった。

グロスター岬とガスマタからの日本軍陸上部隊の撤退とこの地区の航空戦力の喪失は、事実上ラバウルとガゼレ半島を1944年2月から終戦に至るまで孤立させることとなった。このような状況の下、日本陸海軍は人的資源のほとんどを農業と小規模な製造業に当て、自給自足に努めなければならなくなった。陸軍兵士の大半は農民出身で農作業の知識があり、また多くの海軍将兵が専門的な技術知識を持っていたため、醤油・佐藤・インク・バッテリー液から火薬に至るまで驚くほど広範囲な物品を生産することができた。終戦時までに、ラバウルでは自供自足の努力によってニューブリテン島・ニューアイルランド島・ヨーク島で部隊が必要とする物品の85パーセントまでを生産できるようになっていた。

西部ニューブリテンの日本軍基地を占領したアメリカ軍部隊は、この地域を確保することに満足し、日本軍の中心勢力を圧迫するために東進しなかった。1944年の後期になると、アメリカ軍はフィリピン奪還の作戦に専念するため、これらの地域の管轄をオーストラリア軍に委ねた。この結果、アラン・ラムゼイ将軍指揮下の豪第5師団が連合軍の支配圏を大規模な動員をすることなくガゼレ半島とニューブリテンの残りの地域とに隔てるオープン湾とワイド湾にまで進める任務を受けた。1944年4月、この任務の第一段階は、それまでニューブリテン島中部で活動を続けていた連合軍情報局の偵察隊を北岸と南岸の二地域に再編成することであった。南北の両部隊は日本軍にゲリラ戦を仕掛け、墜落した連合軍機の操縦士を救出し、現地住民の協力を取り付けようとした。


1944年8月8日、第32中隊から成る第5師団の部隊が北岸のホスキンス岬に上陸した。これに続いて南岸のジャキノット湾に、11月4日、第6旅団が上陸し、11月末から12月にかけて第13旅団が上陸した。師団の残っている主要部隊である第4旅団は1945年2月末になってようやく上陸を完了した。ラムゼイの任務は連合軍情報局の偵察隊の任務同様、日本軍の活動をガゼレ半島内に押え込むことであった。この任務は、1945年3月、ヘンリー・リード湾に面するワイタバロ付近に強固な塹壕を構える日本軍守備陣地を除去したことによって達成された。空軍は主に他の地域の作戦に従事していたため、空軍の支援は限られていたが、グッドイナフ島に基地を置くオーストラリア空軍は1944年10月と11月にラバウルを空襲した。1945年2月以降、ホスキンス岬から第5飛行中隊が作戦に参加するようになり、5月にはジャキノット湾からニュージーランド空軍も発進した。

1944年7月以降の作戦で、オーストラリア軍は200名以上の死傷者を出し、内91名が戦死した。これとは別に、この時期以前に連合軍情報局の死傷者があり、またこの地域での連合軍飛行士の死傷者もいた。しかし、こうした損失は、この時期の他の地域の死傷者の数に比べて軽いものであった。ブーゲンビル島では、オーストラリア軍は日本軍第17軍に対しより積極的な作戦を取り、その結果、より多くの死傷者を出した。ニューギニアでは、安達二十三将軍の率いる第18軍が各陣地を死守しようとして非常に多数の死傷者を出した。しかし、今村将軍の率いるラバウルの部隊は食糧も武器も比較的に豊富で、連合軍との決戦に対する準備を整えていた。もしこの決戦が実際に起こっていたとしたら、両軍の戦死者ははるかに多くなっていたことであろう。

スティーブ·ブラード記 (Haruki Yoshida訳)


Printed on 05/19/2024 02:11:53 AM